太平洋戦争におけるビルマの戦いは、多くの国の戦闘と独立運動の関わる大規模でまた長い戦いだった。
日本(大日本帝国)にはビルマ・タイ・自由インド仮政府(1943~1945)と、対して連合国はイギリス・アメリカ・中華民国・イギリス領インド・イギリス領ビルマ・韓国臨時政府(~1945)などが加わっていた。
太平洋戦争開戦前後のビルマ
現在はミャンマーとして知られるビルマは、1824年からイギリスの統治下にあった。
しかし日本が東南アジア諸国への南方作戦を遂行するにあたり、ビルマは戦場と化す。
南方作戦総司令官は寺内寿一(てらうちひさいち)陸軍大将で、ビルマ方面への進軍を担った第15軍の司令官には飯田祥二郎(いいだしょうじろう)陸軍中将が就いた。
ビルマではその10年ほど前から独立運動が活発化していて、運動の先頭にあったのは「タキン党」である。
タキン党には首都ラングーンにあるラングーン大学の学生が多くいて、そのリーダーだったのがのちのアウンサン将軍だった。
日本軍ビルマ侵攻作戦とBIA
ビルマ侵攻は、太平洋戦争開戦と同時にスタートしている。
1941年12月8日、日本は英米へ宣戦布告すると、第15軍はビルマの南から進軍し、ビルマの国民とBIA(ビルマ独立義勇軍)の協力を得て山脈の連なる国内を悠々と進んだ。
またBIAには続々とビルマの独立を願いイギリスへ反発する若者が次々と加わり、最終的には2万7千人もの軍になったといわれる。
3月8日には首都ラングーンを占領し、わずか4カ月ほどの期間でビルマを制圧することに成功した。
このとき尽力したBIAはのちに解散と再編成を経てBDA(ビルマ防衛軍)となり、1943年にはBNA(ビルマ国民軍)と変わる。
さらに1945年(終戦前)にはPBF(ビルマ愛国軍)となり、日本の指導の元に編成されていたはずの軍の内部には抗日派も多くなって今のミャンマー軍事政府の礎となっているという。
この連合国統治下から日本による制圧(奪還)と独立運動を経て、のちに一国として独立する流れは他の多くの国と共通している。
日本の戦況化によって国民の意識も変わっていき、日本の敗戦を機として独立への運動が盛んになるようだ。
連合軍の反転攻勢
ビルマ国内での独立運動や自国軍の強化、さらに日本との関係構築(この時点で日本とバー・モウ政権の関係は悪化し始める)の最中、連合国軍がビルマ制圧へ進軍を始めた。
12月末、ビネガー・ジョーことジョセフ・スティルウェル司令官のもと、米中の連合部隊がビルマ北部へ進軍。
フーコン河谷を舞台とした激しい持久戦に加え、英領インドの特殊部隊チンディット(指揮:イギリス陸軍将校オード・ウィンゲート)によるゲリラ作戦なども功を奏し、各国の連携に問題はあったとされつつも日本軍を撤退させるに至っている。
また翌年のビルマ南西部では、花谷正(はなやただし)陸軍中将率いる第55師団と、イギリスのフィリップ・クリスティソン中将率いる歩兵師団と戦車連隊の衝突があり、ここでも日本軍は撤退した。
インパール作戦
ビルマの戦いにおいて大きな契機となったのはインド北東部の都市インパール攻略を目論んだ「インパール作戦」である。
日本は第15師団・第31師団・第33師団を擁し、インパールへ向けて進軍。
大規模な作戦となったのは理由があり、インパールはイギリスの重要拠点であり、さらに中華民国への補給路(援蔣ルート)でもあることから、インパールを制圧することで戦況は一気にひっくり返ると読んだ。
しかし、インパールへの経路には大河のチンドウィン川やアラカン山脈といった険しい道のりがあり、しかも人口も少ない地域で補給も難しいと考えられたが、軍部の圧力などもあって強行されたと今日ではいわれる。
史上最悪の作戦といわれたこれは、結果的に日本軍が5万人以上の死傷者を出し、敗戦を決定的にした。
イギリス軍は空輸による補給を行いながら防衛に成功したのである。
インパール作戦においては、第15師団と第18師団の師団長であった牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の責任を問う評価が多いが、中将も当初は反対していたという記録もあり、是非を問うなら様々にいわれている。
インパール作戦失敗からはあれよあれよという間に日本は敗北の一路を辿った。
日本の敗戦ムードの強まった1945年3月、アウンサン将軍はビルマ国民軍を率いて反旗を翻し、ビルマの完全な独立を推し進める。
だが太平洋戦争終結後、間もなくイギリスの植民地とされてしまい、なおも完全独立を目指すが3年後に暗殺されてしまう。
またアウンサン将軍の長女は、言わずと知れたビルマの民主化指導者アウンサン・スーチーである。