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1950年から、厳密には2021年まで続いたといわれるのが、南北朝鮮を舞台とした朝鮮戦争である。
韓国は、今では日本とも同じアジアの先進国として知られるが、対して北朝鮮は軍事国家の色も強く、経済発展の著しいアジア圏にあっても、非情に歴史を感じさせる国として残っている。
なぜ南北朝鮮は分断されてしまったのか、今回あらためて経緯をまとめてみた。

 

朝鮮戦争以前

韓国と北朝鮮は元々「大韓帝国」(だいかんていこく:1897~1910)という国家であり、それ以前は「李氏朝鮮」(りしちょうせん:1392~1897)であった。

1910年には日本が韓国を統治(韓国併合)し、朝鮮半島は日本の一部となっていた。
韓国併合に関しては双方の評価は多々あるが、今の北朝鮮も含む朝鮮半島全土が日本の統治下にあり、財政面の管理すらも日本に一任されていたのは事実といわれる。
その後、1945年夏には太平洋戦争が終結し、日本は敗戦国となる。
同時に植民地とされていた国々も解放され、大韓帝国もまた独立国家として容認されることとなる。

ここで勃発したのが、今なお続くといわれる"冷戦"である。
まず終戦間近の1945年8月8日、ソ連が日本へ宣戦布告。
すると終戦後には独立国家とされるはずだった大韓帝国を統治されることを危惧したアメリカは、ソ連へ大韓帝国を分割して統治することを提案。
これによって大韓帝国北緯38度線を境として北部をソ連軍が占領し、南部をアメリカ軍が占領することとなる。
これが現在の韓国と北朝鮮である。

 

1948年:大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が成立

終戦から3年が経過し、なお朝鮮半島は分断されたまま、民主主義を推進する南側と社会主義を同じくする北側の対立が激化していた。
1948年8月15日には、大韓民国臨時政府大統領を務めていた李承晩(イ・スンマン:이승만)が、ソウルにて「大韓民国」成立を宣言。
対して、9月9日には金日成(キム・イルソン:김일성)がソ連の後押しを受けて「朝鮮民主主義人民共和国」を成立した。

李承晩[Image Credit:Wikipedia]

 

金日成[Image Credit:Wikipedia]

 
この時点で、北緯38度線は国境と変わる。
李承晩大統領は「北進統一」、金日成首相は「赤化統一」を宣言するものの、その実情は民主主義と社会主義の対立である冷戦と同じくしていく。

だがこの時、北朝鮮を支持ソ連および同国最高指導者のヨシフ・スターリンは、韓国との軍事衝突には消極的だった。
理由は、この当時世界で唯一の核保有国だったアメリカとの衝突を恐れたからであり、しかしソ連は1949年8月に原子爆弾の開発に成功したのを機に、統一戦争へ向けた働きかけを行うようになった。

 

1950年6月25日:朝鮮戦争勃発

1950年6月25日午前4時、国境となっていた北緯38度線にて、北朝鮮軍の砲撃が開始された。
砲撃に際して宣戦布告は行われず、奇襲攻撃であったとされる。
この時、力を発揮したのはソ連から貸し出された「T-34-85型戦車」で、これは太平洋戦争終結直前のソ連による満州侵攻の際にも使われている。

T-34-85型[Image Credit:Wikipedia]

 
しかし韓国の第一歩兵師団を始め、いくつかの部隊は健闘し、ソウルへの侵攻をいくらか食い止めたが、6月28日には北朝鮮と中国の連合軍によって首都は陥落した。

またその前日には安保理によって北朝鮮は"侵略者"と認定。
アメリカ・イギリス・フランスを始め、ヨーロッパやアジア諸国の22か国に及ぶ国連軍が組織され、最終的には二百七十万人ともいわれる連合軍が北朝鮮撃退に向けて参加している。
終戦間もない日本は、公には朝鮮戦争に参加していないことになっているが、厳密には特別隊が派兵されていた。
対して北朝鮮には中国とソ連が後ろにつき、のべ三百万人ほどが兵力となった。

 

1950年9月15日:仁川上陸作戦

奇襲による事実上の宣戦布告からふた月以上経ち、長らく苦戦を強いられてきた韓国軍および国連軍だったが、侵攻を目的とする中朝連合軍に対し、防衛を主にしてアメリカの連日の戦力補強を受けていたことで戦況は徐々に傾き始めていた。

契機となったのは、9月15日にダグラス・マッカーサーの指揮によって実行された仁川上陸作戦である。
仁川広域市はソウルから西に40キロほどの距離にある都市で、朝鮮半島西部の海「黄海」に面している。
マッカーサーは仁川を制圧することで、北朝鮮軍に二方向からの作戦を展開できると想定し、司令部へ作戦を説明した。
だが懸念されたのは、北朝鮮軍が西部からの反撃を想定しているかどうかである。

結果としてソ連と中国は同様の危機感を募らせたものの、金日成はソウルへの正面の突破のみで侵攻できると考えており、マッカーサーが読み勝つ結果となった。
仁川上陸作戦の成功率は当初、五千分の一の確率とまでいわれた。
9月10日にはアメリカの戦闘機「F4U コルセア」によるナパーム弾攻撃を開始し、仁川の西側に位置する島「月尾島」(ウォルミド)を制圧。

F4U コルセア[Image Credit:Wikipedia]

 
15日には第1海兵連隊および第5海兵連隊を始めとする二万人以上の軍勢が上陸を成功させる。
アメリカ軍が用いたのは重戦車「M26パーシング」で、北朝鮮軍が用いたソ連製の「T-34-85」「SU-76」などは問題にならず、アメリカ側はほぼ戦死者を出さずに作戦を遂行した。

M26パーシング[Image Credit:Wikipedia]

 
このことを後にマッカーサーは「交通事故の被害者の方が多い」と揶揄した。

 

1950年10月:中国が介入し、平壌とソウルを奪回

仁川上陸作戦を成功させたのを機に反転攻勢を仕掛けたアメリカ軍は、北朝鮮の現在の首都である平壌(ピョンヤン)を制圧。
この時、金日成と、のちに跡取りとなる金正日も中国へ亡命している。
金日成はソ連に介入を求めたが、スターリンはアメリカとの直接の衝突を避ける狙いもあってはぐらかし、中国の介入要請を薦めたという。
しかし、中国側も当初は「アメリカの近代兵器に勝てる算段はない」と読み、北朝鮮への援護も拒否しかけたが、アジアでの派遣争いのために介入を決断した。
先頭に立ったのは毛沢東(もうたくとう)である。
中国は志願兵による部隊を導入し、12月にかけて人海戦術による猛攻撃。
アメリカを敗走させた。
時を同じくして、中国介入と同時にジェット機での空中戦も勃発。
ミグの愛称で知られるソ連製のミコヤンMiG-15を北朝鮮側が擁し、対してアメリカはロッキード製のF-80を動員。

当初はアメリカのB-29が制空権を握っていたが、ミグの出撃によって戦況は変わり、12月には平壌を奪回し、翌年初めにソウルを奪回している。
因みにミグのパイロットは大半がソ連の軍人であった。

 

1951年3月:ソウル再奪還

ここまでの経緯だと、北朝鮮と中国が圧倒的に優位に見えるが、戦況はまたしても変わっていく。
ようするにこの時期までの歴史上、アメリカに勝利した国などほぼなかった。

またこの時、第八軍の指揮官であるウォルトン・ウォーカーが交通事故で亡くなり、後任にはマシュー・リッジウェイが推薦された。

マシュー・リッジウェイ[Image Credit:Wikipedia]

 
リッジウェイは朝鮮戦争における英雄とされ、彼の就任から形勢は逆転する。
サンダーボルト・リッパー・キラーといった作戦の数々を遂行し、この時点で士気の落ちていた中朝軍を押して三月にはソウル奪還に成功した。
首都ソウルが中国と北朝鮮の手に落ちていた期間はわずか三ヶ月だけとなる。

また翌月には、マッカーサーがアメリカのトルーマン大統領によって最高司令官の解任を命じられる。
後任はもちろんリッジウェイが推薦され、朝鮮半島での国連軍指揮および連合国軍の最高司令官に就任。

さらにこの時、マッカーサーは中国と北朝鮮への原子爆弾での攻撃も計画しており、38度線に国境をおいて停戦に向かおうとするアメリカ側の意向とは大きく逸れていたという。

 

1953年3月:スターリン死去・休戦協定へ

その後も膠着状態が続き、国境での激しい戦闘が繰り広げられるものの、同時に休戦への会議も進められていた。

状況が動いたのは1953年3月5日。
ソ連のスターリンが死去し、これを契機として毛沢東も休戦へ合意。
同年7月27日には、38度線近辺にあり、現在までもたびたび首脳会談の場所として使われてきた板門店(パンムンジョム)にて、中朝軍と国連軍の間で休戦協定が交わされた。

朝鮮戦争は結果として三年も交戦が続き、両軍ともに数百万人規模の死傷者を出している。
たびたび会談が重ねられてきたが、2021年には終戦に原則合意が成された。

「文大統領、朝鮮戦争終戦宣言で「原則合意」 韓国・北朝鮮・アメリカ・中国の4者で」https://www.bbc.com/japanese/59633055

 

Image Credit:https://commons.wikimedia.org/

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