昨今、経済成長の著しいインドネシアにはかつて、国の独立を巡る大きな戦いがあった。
それが「インドネシア独立戦争」である。
オランダ植民地時代から日本統治の時代へ
インドネシアは16世紀頃からオランダの植民地とされていた。
それが1939年には第二次世界大戦が勃発し、ナチス率いるドイツによってオランダの本土が占領される。
インドネシアを統治していたオランダ植民地政府もドイツや日本に対して反発姿勢をとり、日本軍はインドネシアを構成するジャワ島やスマトラ島を舞台に戦闘を繰り広げ、オランダ軍(オランダ領東インド軍)は1942年3月10日に日本軍へ全面降伏した。
これによってインドネシアは以前よりも多くの自由を手にし、民主主義運動活動家の解放や、インドネシア語の公用語化などが進められたのである。
インドネシア独立宣言
周知の通り、1945年には日本を大敗を喫して終戦となる。
日本によって統治され新たな道を踏み出していたインドネシアでは、その情報を知って間もなく独立を宣言。
スカルノを首席とするインドネシア共和国を設立した。
この時点でインドネシアには数千人の日本人(軍人・民間人)が残っている。
そして10月にはイギリス軍とオランダ軍が進駐のために上陸。
インドネシアですでに編成されていた人民治安軍と衝突を繰り広げることとなる。
当時インドネシアの軍隊は総勢20万人近い勢力だったといわれるが、対するオランダ軍、イギリス軍、オランダ領東インド軍などは合わせるとそれ以上の数だったという。
ここで鍵となったのは数千人いたといわれる残留日本人の存在である。
元々は、厳しい統治を強いていたオランダをわずかな期間で降伏させ、インドネシアを独立のために国力強化させていっただけでなく、敗戦間近には実質の独立容認(※小磯國昭首相による小磯声明)などもあり、インドネシアとしては欧米よりも日本へ信頼を寄せる国民の方が多かったともいう。
日本はすでに敗戦国となり、占領地域は連合国側に引き渡すように命じられていたが、連合国にみすみす従うことを日本人も良しとしなかったため、数万丁ともいわれる銃器・大砲を始め、食料などもインドネシアに明け渡している。
一方で、命令を守ろうとする日本人との衝突もあり、ジャワ島のスマランでは城戸進一郎少佐の指揮する軍とインドネシア軍とで中規模の戦闘も勃発した(スマラン事件)。
また独立に際しては、インドネシアとオランダとの交渉に、仲介としてイギリスが立っている。
この時点でお察しかもしれないが、インドネシアとしてはまたオランダ領となって似たような歴史を繰り返すのだけは避けたいという思いがあったという。
インドネシア国内にも反スカルノの過激派組織や、交渉派に相対する武装派などの人も多くいて、交渉を進めていても各地で衝突が起こるという状況だった。
リンガジャティ協定
1946年11月には停戦協定となる「リンガジャティ協定」が締結され、この内容自体はインドネシアとオランダ双方の要望を譲歩したものだが、インドネシアを統治したいオランダと独立したいインドネシアの意向に大きな変化はなかったとされる。
1947年に入ると、リンガジャティ協定の影響もあって内乱も激化し、7月には当時のシャフリル内閣が崩壊。
後任として同じインドネシア社会党のアミル・サラフディンが首相に就いた。
その翌日からオランダ軍はインドネシア侵攻を開始し、都市部を次々に制圧するものの、離れた農村部ではゲリラ戦などで多くの被害を出した。
これは日本の戦い方と非常に似ているが、日本が統治していたわずかな間に日本の主導でインドネシア軍が訓練されていたからともいわれる。
日本がインドネシアを実質の同盟軍とするのには連合国軍との戦いのためであったが、奇しくも敗戦後においてインドネシア独立の大きな原動力となったのである。
また同時期、国連(国際連合)が介入し、安保理決議によって8月に停戦成立とされるも、オランダ軍は侵攻を止めず、徐々に世界各国からの信頼を失い始める。
レンヴィル協定
1948年には停戦協定としてレンヴィル協定が締結される。
この内容はインドネシアとしては領土を大きく失う厳しいもので、間もなくアミル・サラフディン内閣は崩壊。
当時副大統領を務めていたモハメッド・ハッタが副大統領兼首相となり、交渉を続ける姿勢をとるが、インドネシア国内の内乱も相変わらず止まず、この当時のほんのひと月ほどだが武装派のクーデターが起きて革命政府の樹立が宣言されるなど起こった。
またこの危機に乗じてオランダ軍はスカルノ大統領とハッタ副大統領兼首相を拘束し、ますます戦況は偏っていく。
しかし1949年に入る頃には、オランダの姿勢に対する世界からの強くなり、アメリカなどの経済援助が停止される。
オランダは世界大戦の時に本土をドイツに占領されていた影響などから、国一つとしての経済力は低下していた。
後ろ盾がなくなると、防衛する側よりも侵攻している側のほうが経済的に追い込まれてしまうことは戦争の話ではよくあるが、オランダも例に漏れず厳しい状況だった。
ハーグ円卓会議そしてインドネシア独立へ
1949年7月13日、スカルノとハッタは解放され、オランダの首都ハーグで「ハーグ円卓会議」が開かれ、インドネシアの独立が正式に樹立された。
インドネシア独立戦争は第二次世界大戦終戦直後から四年以上にもわたって続いた。戦死者は十万人にも及ぶ(オランダ側の戦死者は公称七千人以上)といわれ、インドネシアも多くの血を流す結果となったが、独立を勝ち取ることでアジアの大国の一つとなるに至っている。
戦いには日本人も多く関わり、衝突と協力が錯綜してはいるが、インドネシアとの戦力強化にも影響はあったという。
一方でインドネシア本国では、オランダに対しても日本に対しても反発する人が少なからずいたといい、日本で認識されているほどインドネシアの統治や共闘はスムーズなものではなかったともいわれている。
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