第二次世界大戦における最終局面となった太平洋戦争(1941.12.8~1945.8.15)。
その契機となったのは大日本帝国軍によるハワイ諸島への奇襲「真珠湾攻撃」といわれるが、まったく同じ日のわずか先に行われたのが「マレー作戦」である。

マレー半島とは、当時イギリスの領土となっていたアジア島南端の半島で、現在のマレーシア・シンガポールの他、タイとミャンマーの一部が含まれる。
日本軍はマレー半島に上陸し、シンガポールを攻略することを作戦目標としていた。

当時のシンガポールは、日英の軍事同盟が大正12年に破棄されて以降、イギリスによる軍事強化が進められ、東洋のジブラルタル(※ヨーロッパ南部にあるイギリスの領地。イベリア半島の南端。地中海の入口を押さえる要塞がある。)と呼ばれ、太平洋における覇権の重要ポイントとされていた。

日本は真珠湾攻撃によって米国へ宣戦布告とすると同時に、英国へもマレー半島の侵略を進める予定だった。
そして、1941年12月8日未明、真珠湾攻撃の1時間余り前の時間にマレー半島の北部へ軍を上陸させたのだ。
記録上の兵力は、近衛師団を始めとする第25軍。
司令官は後に「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文(やましたともゆき)陸軍中将(のちに陸軍大将)である。
さらには菅原道大(すがわらみちおお)中将率いる第3飛行集団と、海軍の艦隊も控えている。

山下奉文陸軍中将(Image Credit:Wikipedia)

しかし日本の兵力は記録上で2万人余り。
のちに3万5千人ほどと訂正されたが、マレー半島にはイギリスの兵だけで約2万人、さらにオーストラリア兵とインド兵などもいて、総数は日本軍の倍以上といわれた。
その数的不利を奇襲作戦と士気の高さだけで勝利を呼び寄せてきた日本軍は、ここでも機運を呼び寄せたかのような戦況を描いた。

まずマレー半島北東部の都市コタバルに上陸した部隊は、イギリス軍の迎撃に遭い、淡路山丸(※日本の高速貨物船。最初に戦没した商船)と輸送船などが沈められるものの肉薄し、8日の夜にはコタバルを占領する。
また同日の8日未明にはタイ南部にあたるシンゴラ、パタニ、ターベの三方から上陸。
ここではタイの兵隊による抵抗に遭うが、正午前には敢無く降伏させている。

この時点で日本軍はマレー半島におけるイギリス軍および連合軍の士気の低さには気づいていたといわれ、特に兵力の半数近くにおよぶインド人の兵の消極性は顕著であり、日本が進軍する先ではすでにイギリス軍の兵によって拘束(裏切りや逃亡の阻止のため)されていたインド兵が無数にいたという。
記録に残っている兵の数はもはや頭数にもなっていなかった。

10日にはマレー沖においてイギリスの極東艦隊の主力「プリンスオブウェールズ」「レパルス」を撃沈。
制空権と制海権を手中に収めた。

Prince of Wales(Image Credit:Wikipedia)

しかしマレー半島の北部から上陸した日本軍に対し、イギリス側はなお見くびっていたという記録があり、理由としては「陸路が狭いために進軍に日にちがかかること」だった。
数ヶ月かかるうちに力尽きるのが関の山といった目算だったようだ。
そこで活躍したのが「銀輪部隊」(ぎんりんぶたい)いわゆる自転車に乗った歩兵たちである。

まず戦車が突撃し、輸送の自動車が続き、歩兵はマレー領に無数にあった自転車を使い、悠々と進軍した。
マレー半島内の進路にある橋はいくつもイギリス側によって壊されていたが、銀輪部隊は川でも自転車を担いで渡り、橋を修復して戦車部隊を渡らせた。

銀輪部隊(Image Credit:Wikipedia)

この想像を超える進軍によって、1月中にはクワンタン、クアラルンプール、エンドウ、メルシン、ジョホールバルと攻略し、シンガポールからイギリス軍を撤退させ、マレー作戦は2カ月余りで達成。
日本軍は元より陸軍記念日(3月10日)までの作戦遂行を目標に挙げていた。

 

Image Credit:https://commons.wikimedia.org

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