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太平洋戦争における最終局面は沖縄戦である。

今でこそ沖縄県は日本の最南端に近い県として知られるが、終戦の折の1946年にはアメリカの統治となり、日本に返還されたのは1972年というのだから、沖縄がいかに特別な歴史を歩んできたのかがわかる。

その沖縄の戦いとは、1945年3月に始まる。
それ以前から日本本土への空襲はあり、1944年10月には沖縄も大規模な爆撃に遭っている。
記録によると死者は660人で、中心部の那覇市においては九割もの広さが焼かれている。
日本のように陸地面積の小さな国において本土決戦などは決死の事態であり、歴史の中でもたびたび侵略から防衛を成功させてきた中国やロシア(ソ連)とはまったく異なる話であった。

 

アメリカ軍の事前爆撃から上陸まで

3月23日には沖縄本島への事前の爆撃があり、この時点で日本軍はアメリカは台湾へ大規模な軍勢で侵攻するものと思われ、そのため日本の大きな戦力だった第九師団(師団長:原守陸軍中将・参謀長:三原七郎陸軍中佐)は台湾へ移動し、大事な戦局に参加できずに終戦を迎えた。
またその直前に編成され、沖縄に司令部を置く第32軍(司令官:渡辺正夫陸軍中将・参謀長:北川潔水陸軍少将)も、当初から沖縄よりも台湾方面へ注視したため、作戦は後手に回っている。

まず戦地となったのは、沖縄の南西に点在する慶良間諸島(けらましょとう)で、前述の通り日本軍は敵の上陸を予期していなかったため、本格的な地上部隊は配備されず、上陸の3月26日から3日程度で慶良間諸島全土が制圧されている。
記録によるとこの時、民間人の集団自決もあったという。
日本軍は神風特攻隊を出撃させ、アメリカ軍の駆逐艦オブライエンや重巡洋艦インディアナポリスなどを破壊している。

特別攻撃隊(Image Credit:Wikipedia)

アメリカ軍の兵力は公称54万8千人とされたが、そのうち上陸部隊は約半数程度。
対して日本側は総力で11万6千人ほどとされたので、状況は確実に不利だった。

 

アメリカ軍が沖縄本島へ上陸

沖縄本島も、当然ながら厚い防衛線が張られるわけでもなく、手薄であったといわれる。
アメリカ軍は4月1日、歩兵団と海兵団のべ6万人を上陸させ、海上からの援護射撃を受けながら進軍。
わずか2日間で沖縄市へ進んだ。

その後、部隊を北方へも伸ばし、4月5日にはうるま市石川周辺と海岸を制圧。戦争においては生命線ともされる飛行場を占領された。
この時、日本軍は占領前に飛行場の破壊を試みているが完了はせず、アメリカ軍によって数日で修理され、制空権すら脅かされている。
日本側はあくまでも持久戦による足止めを重んじており、アメリカ軍もこれまでたびたび小さな島の地形を生かした日本軍の防衛能力は評価し、同時に警戒していた。
それでも賀谷與吉陸軍中佐率いるわずか1千人の第62師団独立歩兵第12大隊は、人数で十倍はいようかというアメリカ軍の進軍を足止めし、戦車10輌を破壊するなど貢献した。

M4中戦車(Image Credit:Wikipedia)

また同時期の4月8日と12日には日本軍が敵軍へ夜襲を試みているが、失敗した。

 

アメリカ軍が最北端まで到達し、本島南部を制圧へ

アメリカ軍は4月13日までに、沖縄の最北端である辺戸岬(へどみさき)へ到達。すでに制圧していた沖縄市より南下し、那覇市を含む南部へと進軍した。
沖縄本土は南部に都市部が集中しているので、あっさりと進んだ北部の進軍とは状況が大きく異なっている。

4月19日には、アメリカ軍の総攻撃が始まり、ナパーム弾を始めとした爆撃や艦砲射撃を行なったが、斜面を利用した日本の陣地に被害は少なく、反転攻勢に出た日本軍の兵士が爆薬を抱えて戦車へ特攻し、M4中戦車を数十輛潰している。

5月に入ると今度は日本軍が反転攻勢に出るが、この時はアメリカ軍の迎撃に遭い、これまで戦果を上げてきた白兵戦にもつれ込むことなく終わっている。
5月13日には、日本陸軍の首里防衛線であるシュガーローフ(安里52高地)の戦いが始まり、日本の独立混成旅団や海軍大隊約6千人と、アメリカの第6海兵師団約2万4千人がぶつかり合い、一週間ののちに日本軍は敗走した。

サイモン・B・バックナー・ジュニア(Image Credit:Wikipedia)

首里防衛線を突破すると、戦況はますます傾き、進軍は南端へと及ぶ。

6月19日には、沖縄戦におけるアメリカ軍の最高責任者だったサイモン・バックナー中将が戦死。
彼の外見は日本軍にも認識されており、バックナーの姿が前線に出ると日本軍の攻撃が激しくなるという状況だった。
明らかに彼を狙った砲弾が、彼のすぐ近くに着弾して石の破片が胸部に当たったという。

バックナーの死後からアメリカ軍の士気は乱れ、今でも語られる沖縄での無秩序の惨劇が始まる。
多くの民間人や無抵抗となった兵士なども殺されていった。
また時を同じくして6月17日には、この時点では存命だったバックナーから第32軍司令官の牛島満(うしじまみつる)の元に降伏勧告が送られているが、牛島は一笑に付したといわれ、戦況がより悪化した23日に長勇(ちょういさむ)参謀長とともに自決した。

牛島満(Image Credit:Wikipedia)

互いに総司令官を失った日米両軍はなお衝突し合い、アメリカ軍の掃討作戦を前に沖縄本土は惨状と化していった。

8月15日には終戦を迎えるが、沖縄での戦闘が終わったのは9月に入ってからのことである。

 

沖縄戦の時系列

3月26日:アメリカ軍が慶良間諸島に上陸
4月1日:本島南西部の海岸から上陸
4月3日:沖縄市へ進軍
4月8日:名護市へ進軍
4月13日:本島最北端の辺戸岬へ到達
4月19日:アメリカ軍総攻撃
4月21日:伊江島上陸
5月3日:日本軍総攻撃
5月12日:シュガーローフの戦い
6月17日:牛島満へ降伏勧告
6月18日:バックナー戦死
6月23日:牛島満自決
8月15日:ポツダム宣言受諾
9月2日:日本政府による降伏文書調印
9月7日:沖縄での同書調印

参考:琉球新報(https://ryukyushimpo.jp/statics/html/okinawasen/mn1.html
※日時や戦況に関しては諸説あり。

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