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1939年(昭和十四年)より1945年(昭和二十年)までの第二次世界大戦における、終盤の4年間ほど続いた時期を指すのが、太平洋戦争である。

フィリピン・インドネシア・グアムといった島々を舞台に日本軍とアメリカ軍は激戦を繰り広げたが、そのうち最も甚大な被害を記録したのがマリアナ諸島はサイパン島での戦いであった。
サイパン島は、1914年に起こった第一次世界大戦の折、終結後に開かれたパリ講和会議において日本の委任統治領と定められており、第二次世界大戦開戦時にはすでに日本軍の司令部が設置された。
当時、日本人はサイパンに三万人ほど住んでいたという。

このサイパン島は、太平洋の中では最も日本に近く(本土から約2,400km)、飛行場や港、物資や兵士を輸送するための鉄道を築くのにも適した最高の陣地だった。
日本からしても、サイパン島を占領されたら本土攻撃のための基地を作られる、いわば「最後の砦」という認識は当然あったのである。
そうして、太平洋戦争の末期とされる1944年の6月11日、アメリカ軍はサイパン島への攻撃を開始した。
上陸のために集まったアメリカ軍は約12万人、対して日本軍はその半数にも満たない4万人程度だったといわれる。

ノルマンディー上陸作戦 [Image Credit:Wikipedia]

連合軍としてはそのわずか9日前の6月6日、かのノルマンディー上陸作戦を遂行しており、アメリカ軍の士気は少なからず高かったという記録が残される。
一方で日本軍は、1943年のアッツ島での全滅を機に「玉砕」というワードがうたわれるようになり、また「絶対国防圏」を巡って陸軍と海軍の意見の相違は目立ち、結果的に防衛作戦を遅らせることになっていたのである。

まず始まったのは空襲と艦砲射撃だった。
この時点で、先日にセブ島で福留繁海軍中将がゲリラ軍に重要な文書を奪われており(※海軍乙事件)、アメリカ軍は日本の陣地や作戦を把握されていた。
サイパン島での戦いは「作戦(あ号作戦)の流出」と「人海戦術」によって、戦う前からすでに戦況は予測できたかに見えたが、日本軍は「夜襲」を巧みに行い、予想外の抵抗を見せる。
そして、このあたりで日本兵には玉砕の精神が広まっていた。

夜襲の際、息を殺して近付き、近距離でいきなり大声を上げて銃剣を突きさしてくるという、おおよそ他国の兵には理解のできない戦い方で恐怖させた。
また兵士の人数においても圧倒的不利であるといわれた日本軍だが、アメリカ軍が上陸する直前には日にちの都合によって島から脱出できなかった約1万5千人の民間人へ戦うように命じており(戦争法においては違法)、民兵を数々参加させている。
アメリカ軍からすれば兵士なのか民間人なのかわからない姿をした人間が突如武器を出して襲ってくるものだから、困惑させられ、結果として無差別に銃撃を行うこととなった。
そして、海戦から不利な状況の続いた日本は好機を掴むため、17日の夜襲にて総力戦を決行。
この時、日本軍の主力として「九七式中戦車」と歩兵部隊を送り込んだが、アメリカ軍は日本の戦車の倍くらいの重量の「M4中戦車」を揃え、さらに「対戦車砲M3 37mm砲」「新兵器バズーカ」「対戦車自走砲M3 75mm」「M101 105mm榴弾砲」または海上からの艦砲射撃などによって迎撃され、総攻撃は失敗に終わる。

M3 37mm砲 [Image Credit:Wikipedia]

M101 105mm榴弾砲 [Image Credit:Wikipedia]

これによって戦力を大きく失った日本軍は防戦を余儀なくされ、翌18日には反撃に遭い、アスリート飛行場を占領される。
サイパン島において飛行場を占領されることは、実質の敗北でもあり、アメリカ軍にとっては任務の完遂も近いといってよかった。

22日からはサイパン島の中部にあるタポチョ山にて攻防戦が繰り広げられ、武装した民間人まで参加する中、思いのほかに日本軍は善戦したがあえなく制圧された。
この頃、サイパンに残った兵や司令官は士気もなく、本部の指令に対して反論するような状態であったようだ。
残された手段は玉砕しかなく、日本兵は声を張り上げながら銃剣を持って次々とアメリカ兵に襲いかかった。
ニコラス・ケイジが主演を務めた「ウインドトーカーズ」(2002年)でも、サイパン島の戦いにおける日本兵のバンザイ突撃はまざまざと描かれた。

そして、サイパン島は7月9日、アメリカ軍によって完全に制圧されることとなったのである。
制圧には約一ヶ月を要したが、当初は「三日で落とせる」と見込まれていたから予想外であったことだろう。
アメリカ海兵隊の戦史局は日本の抵抗を「素晴らしい愛国心」と評したが、それはサイパン島を制圧したことによって日本の本土へのB-29の爆撃が可能となり、実質の終結が見えていたからともいわれる。

【サイパン島の戦い時系列(1944年)】
6月9日:サイパン攻略大艦隊出撃
6月11~14日:サイパン島空襲
6月15日:アメリカ軍上陸
6月16日:アギガン岬・アフェトナ岬占領
6月16日夜:日本軍総攻撃(失敗)
6月18日:アスリート飛行場占領
6月22日:タポチョ山攻防戦
6月30日:タポチョ山占領
7月6日:日本玉砕指令(バンザイ突撃)・民間人ゲリラ戦
7月9日:サイパン島制圧

【戦力】
日本:約3万人+民間人約1万人
米国:約12万人

【戦死者】
日本:約3万人+民間人約1万人
米国:約3千5百人

スーサイドクリフ(Suicide Cliff)

スーサイドクリフ(Suicide Cliff)崖の一部が削れているのは艦砲射撃の跡

バンザイクリフ(Banzai Cliff)

バンザイクリフ(Banzai Cliff)

スーサイドクリフとバンザイクリフは、サイパン島での敗戦が濃厚となった折、日本軍の兵士や日本の民間人が集団で投身自殺をした崖である。
バンザイクリフの崖下には投身者の山ができ、サメたちが群がっていたと伝えられている。
自決者はのべ数千人から一万人に上った模様。

 

ラストコマンドポスト(Last command post)

ラストコマンドポスト(Last command post)

ラストコマンドポストは、サイパン島の戦いにおいて日本軍最後の司令部が置かれた場所。
スーサイドクリフと同じマッピ山にある。

戦争の資料を展示しているアメリカンメモリアルパーク

アメリカンメモリアルパーク内 ①

アメリカンメモリアルパーク内 ②

アメリカンメモリアルパーク内 ③

アメリカンメモリアルパークは、第2次世界大戦終結50周年を記念して2005年に建設された公園で、広大な敷地の中には戦時中の様子が分かる資料館がある。

・公式ページ
https://www.nps.gov/amme/index.htm


Image Credit:Wikipedia / ミリナビ
写真:JUN TAKAHASHI

 

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